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津軽三味線 多田あつし −多田あつしと夢弦会−
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多田あつしライフストーリー
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■連絡先住所
三味線店 多田工房
〒036-8216
青森県弘前市在府町34-1
 ・tel/fax  0172-35-6768
 ・e-mail    
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郷土料理店 杏のバナー
・弘前市内の郷土料理店です。夢弦会メンバーの生演奏あり。
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津軽民謡との出会い
■私の民謡との出会いは小学一年のときでした。津軽民謡を習っていた同級生の唄に感動し、私も唄いたい思ったのがきっかけです。中学生のとき津軽三味線も始め、師匠の唄付けもするようになりました。しかし私をわが子のようにかわいがってくれていた師匠を亡くしたこともあり、一度は民謡をやめてしまいました
津軽三味線との出会い
■再び三味線を手にしたのは、高校一年のとき腎臓病を患ったときでした。空手部の稽古で雨の中をはだしで走ったら風邪をひいてしまい、こじらせて腎臓病になってしまったのです。半年近く入院しました。腎臓病はどこも痛くなく、体を冷やさないようにして安静にしているだけ。食事と検温以外はすることがなく、暇を持て余していました。
それで放っておいた三味線を再び弾くようになったのです。病院の洗濯室か、屋上で一日中練習してました。暇つぶしのつもりが、いつしか熱が入り、津軽三味線のテープを何本も聞き込んで、気に入った部分を組み合わせて曲を作ったりしました。
津軽三味線全国大会への挑戦
■三味線に夢中になっていった入院生活のなかで、地元弘前で開催される、津軽三味線全国大会のことを知り、挑戦することを決意しました。主治医の先生から外出許可をもらって、1985年の「NHK津軽三味線全国大会」に出場しました。津軽三味線を志す人たちが全国から集まる大きな大会で、木乃下真市さん、上妻宏光さん、吉田兄弟を輩出したプロへの登竜門です。私が出場したのは一番下のC級でしたが、初挑戦で特別賞を受賞しました。同室の患者仲間もよろこんでくれて、芸名もをつけてくれました。平仮名で「あつし」というのがそれで、今も使っています。
津軽三味線全国大会制覇へ
■賞をもらったら、師匠について本格的に修行したくなりました。親にはかなり反対されました。当時、三味線は今のように注目もされていなかったし、若手の演奏家も少なかったですから。それに楽器と修行に数十万もお金がかかる。なんとか親を説得したものの、頼れませんからアルバイトしながら師匠のもとに通いました。

■B
級で優勝したのが、高校三年生のとき。それから徐々に演奏依頼が来るようになり、お客さんの紹介でNYに行って演奏もしました。でもそのときは、三味線で生計を立てていこうという考えはありませんでした。私より腕の立つ人は大勢いましたが、三味線一本で暮らしている人はほとんどいませんでしたから。結局、都会暮らしにあこがれて、高校を卒業して後すぐに上京しました。アルバイトしながら一年半ほど暮らしていましたが、その間は三味線に一切触りませんでした。

■転機が訪れたのは二十歳のころ、その年の津軽三味線全国大会A級優勝者の名前を耳にしたときです。私が大会に出ていたころ、常に腕を競い合っていた同年代のライバルでした。しかも私が遅れをとったことは一度もなかった相手でした。もしかすると自分もA級で優勝できるかもしれない、三味線で生活できるかもしれない、と思ったのはこのときが初めてだったと思います。弘前に帰ってきて再び三味線を始め、二十一歳のとき念願のA級で優勝。報道の力もあり、演奏依頼が増え、弟子もついてきて、何もかも順調に思われました。

皮張りを始めたきっかけ


■ところが、A級で優勝したとたん、三味線の皮を張る職人さんたちがいい皮を張ってくれなくなったのです。皮は三味線の心臓部であり、皮の質と張り具合のよしあしで、音質が決まってしまいます。特に、同程度の腕の人たちがひしめき合う全国大会では、皮の質が勝負を決めてしまう場合もあるほどです。職人さんたちも、ひいきの奏者のためにいい皮を残しておくんですね。またその逆もあるということです。

いくら腕を磨いても三味線の皮が悪ければ絶対にいい音が出ません。いい音で演奏ができなければ、評価も得られないし、仕事も入ってこないわけです。なにより自分自身の音に対するこだわりが満たされない。それなら自分でやるしかない。秋田、東京、富山、大阪。全国の三味線店を訪ねて見学させてもらいました。なかには秘伝だからと断られたこともありましたが、たいていは見せてもらえました。

早速、見よう見まねで皮張りを始めたものの、一日に十枚以上失敗したこともあります。金額にすると10〜20万円の損失です。みるみる借金が膨らんで、どん底の生活に落ち込んでしまいました。電気もガスも止められてせっかく開いた教室も解散。内職もタクシーの運転手もしました。でも三味線をやめようとは思いませんでした。三味線で失なったものは、必ず三味線で取り戻してやろうと。その後、徐々にですが皮張りも軌道に乗りはじめ、教室も再開し、弟子たちも戻ってきてくれました。
郷土料理店 杏との出会い
■生活も落ち着き始めたころ、弘前市内の郷土料理店「杏」と専属契約をさせてもらいました(1995年)。毎晩演奏できるホームグランドを得たことで、お客様からの依頼、またその紹介と演奏依頼が増えてきたのです。

■その後は津軽三味線ブームもあり、多くのお客様に支えられて、全国各地で演奏させていただいております。今では演奏活動のほかに、三味線教室と、三味線店を運営しています。
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